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2019年3月24日の大崎裕史の今日の一杯

神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰

ラーメンの鬼・故佐野実さんの「支那そばや」の最初の暖簾分け店。先日の「今日の一杯」で書いた「支那そば あおば」(武蔵野市)も1998年だが、こちらも1998年のオープン。創業20年以上になる。平日の昼に訪れたが10人くらいの待ちができる人気だった。雑誌やテレビに出る時はたいがい「支那そばや本店」か新横浜店が出るのでこちらはほとんど露出がない。近くの人以外にはあまり知られてないんじゃないかと思ったが予想以上の人気ぶり。
醤油と塩の2本柱でチャーシューやワンタンのトッピングがあるくらいでシンプルな構成。
ラーメン750円を注文。お冷やに麦飯石が入っていて懐かしかった。これは鵠沼海岸時代に「何が入ってるんだろう?」と気になったもの。
出てきたラーメンはスープがたっぷり。最近の新店ではスープ少なめの所も少なくないのでこういうのはなんだか嬉しい。今の「支那そばや」の味というよりは鵠沼海岸時代の味に近い。懐かしく、そしておいしい。たっぷりスープではあったが迷うことなく完飲。麺は自家製でしなやかで喉越しのいいもの。カタメ好きの人には柔らかいと言われそうだが、このスープにこの麺は絶妙。ホロッと崩れる柔らかくて大きい豚バラチャーシューもうまい。さすが20年経っても人気店だけある。
2014年に佐野さんが亡くなった時に書いた文章が見つかったので引用して紹介したい。
『私が最初に出会ったのは、「支那そばや」がまだ藤沢の鵠沼海岸にあった頃。当時、この店は「携帯禁止、私語厳禁、禁煙、香水お断り」という禁止事項をたくさん掲げていたことでも有名だった。そのため店内はいつも静まりかえっていた。しかし私は食べ終えて帰る時には大きな声で「ご馳走様でした。おいしかったです」と言って出てきた。

 よくマスコミの方や初めて会った方に聞かれるのが「これまでで一番おいしかったラーメンは?」という質問。その時に答えていたのは、佐野さんが2001年に新横浜ラーメン博物館の「支那そばや」で作った「禁断のラーメン」だった。このラーメンは、ラーメン評論家の先駆けである故・武内伸さんの記念すべき5,000杯目を、親友であり “麺友”である佐野さんが原価に糸目を付けず、今考え得る最高の食材を集めて作る、というもの。実に素晴らしい一杯だった。

臨時休業の先駆けでもあり、禁煙を早々に打ち出したのも佐野さんだ。「名古屋コーチン」というブランドを有名にした立役者。今は多くの店でやっている自家製麺に変えたのも早かった。その頃に国産小麦に目を付けている。「モンゴルかん水」をラーメン界に導入するのにも大きな力を発揮した。

私が初めて話をさせていただいたのは新横浜ラーメン博物館に出店してから。その後、何度も会う機会があったが印象に残っているのはこういう会話。佐「年間どれくらいラーメン食べてるんだ?」大「800杯くらいですね」佐「そんなに食べてるのか?身体は大丈夫か?」大「人間ドックも受けてますし、異常なしです」佐「身体だけは大事にしろよ。それで身体壊したら全部ラーメンのせいにされるからな。ラーメンのためにも健康には気をつけろよ」ラーメン業界に対するイメージと私の健康を気遣う気持ちが大変ありがたかった。

 また、取材や打ち合わせが終了すると「まだ時間ある?」と、いつも聞いてきた。「はぁ、大丈夫ですが」と答えると、食事または飲みに連れて行ってくれた。もちろん店はいつも佐野さんが指定した。いつもこだわりのおいしい店ばかりである。会計時に財布を出そうとしたら「何やってんだよ。俺が指定した店なんだから俺が払うに決まってんだろ!」とかなり厳しく怒られた。男気と優しさと照れと茶目っ気とユーモアを兼ね備えた人だった。』

お店データ

支那そばや 鶴ヶ峰店

神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町1-29-8(鶴ヶ峰)
大崎裕史

(株)ラーメンデータバンク取締役会長。日本ラーメン協会発起人の一人。東京ラーメンショー実行委員長。1959年、ラーメンの地、会津生まれ。広告代理店勤務時代の1995年にラーメン情報サイト「東京のラーメン屋さん」を開設。2005年に株式会社ラーメンデータバンクを設立。2011年に取締役会長に就任。「自称日本一ラーメンを食べた男」(2015年12月末現在約23,000杯実食)として雑誌やテレビに多数出演。著書に「無敵のラーメン論」(講談社新書)「日本ラーメン秘史」(日本経済新聞出版社)がある。